天祚帝(てんそてい、1075年 - 1128年)は、遼の最後の皇帝(在位:1101年 - 1125年)。
1075年、第8代皇帝道宗の子の順宗・章懐太子の耶律濬(梁王・耶律浚、阿魯斡)の子として生まれる。幼くして政争の結果として父を失い、これを哀れに思った祖父道宗によって妹の秦晋国長公主(諱は延寿)とともに養われ、梁王に冊封された。一時的に祖父道宗は甥の耶律淳を皇太甥に定めるも、臣下の諫めの結果で天祚帝が皇太孫となった。1101年、祖父の崩御に伴い皇帝として即位する。
即位した天祚帝は暗愚な性格であり政務を顧みず、家臣の諫言に対しては処罰を以って臨むなどの言動があり民心の離反を招いた。外交面でも1115年に遼に従属していた女真族が金を建国して独立すると、討伐軍を派遣したが逆に大敗、遼の弱体化を露見させる結果を招いた。
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1121年に、枢密使の蕭奉先(遼の外戚)が、天祚帝の嫡子で太子候補の晋王・耶律傲盧斡と遼の宗室でもある上京路都統、金吾衛大将軍の耶律余賭と(余覩とも、晋王の叔母の夫)と対立していた。そのため、蕭奉先は妹の蕭元妃が産んだ秦王・耶律定(のちの北遼の2代皇帝)を太子とすべく「余賭による晋王・傲盧斡擁立の陰謀あり」と讒言し、天祚帝はこの言葉を疑わずに信じてしまった。そのため、耶律余賭は危険を感じて金に降ってしまった。さらに翌年1月に、擁立の疑いを持たれた晋王とその生母の蕭文妃らに賜死させ、秦王を太子に定めてしまった。
1122年3月7日、金の太祖と入來山で戦って大敗し、長春に逃れた。そのため同月13日に皇族の耶律大石と李処温らは天祚帝の従父(おじ)の耶律淳(宣宗・天錫帝)を擁立し「北遼」を建国してしまった。やがて、遼と敵対関係にある金は遼の弱体化を好機と捉え、1125年に北宋と同盟を結び遼に侵攻する。金宋連合軍に敗れた天祚帝は潜伏地の雲州(山西省)の陰山から逃亡する途中、応州で金の捕虜にされて金に降った。こうして遼は滅んだ。後に、天祚帝は「海濱王」に冊封され長白山に送られて余生を過ごした。1128年8月に病死。齢54。
遼が滅亡したため、耶律大石は中央アジアに逃れて西遼を建国した。そのため、遼は在続することになる。
なお、天祚帝の末裔は金の海陵王により一族が誅殺され、断絶している。